2007年 02月 12日
(2)「外部から不二家を変える」改革委員会の「八人の侍」
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「外部から不二家を変える」改革委員会のメンバーが発表になった。わたしは、その発表を翌日の新聞で知った。
旧総理府の行政改革委員会の事務局長をつとめて、政府関係の委員を多く経験した田中一昭先生がその委員長になった。道路公団民営化問題では道路関係四公団民営化推進委員長代理になっていて、妥協をしない「堅物」だったという印象がある。道路公団民営化では、わたしが期待した作家の猪瀬直樹氏が桜井よし子氏に批判されたように危うい妥協をしていくなかで、田中先生は直言を厭わぬ熱血漢に映っていた。最終報告をまとめる役柄だったが、政府と与党による民営化の枠組み合意が、委員会最終報告の精神を覆すものだと批判し、小泉元総理に辞表を突きつけた破格な委員だった。弱腰の御用学者も多く登用されると聞く政府系委員の中ではいたって横紙破りだが、わたしたち生活者にはとても頼り甲斐のある委員である。BSE問題でも、農水省の対応が「偽装事件を誘発した」と、政府と役所を厳しく非難し、政府の国産牛肉買い上げ事業の仕組みの正否にまで踏み込んだ見解を発表している。そのときは食肉流通問題調査検討委員会委員長という要職だった。現在は拓殖大教授である。その田中先生が、不二家に内在する問題や体質を変革する改革委員会の委員長に就任したのだ。
FCオーナーといっても不二家不祥事になんら切り込めない自分の立場を歯がゆく思っていたわたしは、やっと地獄で仏に会った心境から「がんばってください!」と思わず快哉を叫んだ。
快哉の背景にはもうひとつの理由があった。作家の吉永みち子さんがメンバーに就任していたことである。日刊現代の競馬記者から作家になった異色の経歴を持ち、社会問題に切り込むときにはきわめて的確な発言をされるジャーナリストでもある。その見解は一方に片寄ることなく両者に目配りをしながらも、根っこまで踏み込んだ発言を添えることができるテレビコメンテーターである。わたしはテレビ画面に映し出される庶民顔の吉永氏にいつも同意の声援を送ってきた。
1月23日の朝だった。東京ライターズバンク代表の元朝日新聞記者児玉進さんから電話をもらった。東京ライターズバンクは、ライター編集者の緩やかな組織で、神楽坂・ペコちゃんの上のドトールを会合に使ってくれている。法政大編集ライター講座などを共同で開催している親しい仲である。この日は東京理科大から頼まれていた大学院生に対する日本語講座の件であったが、話は自然とペコちゃんに移っていった。
「大変でしたねえ」と開口一番にひとしきり同情してくれた後で児玉さんはこういった。
「平松さんは、田中先生とお知り合いなんですか?本日の読売新聞の「顔」で、田中先生が神楽坂ペコちゃん焼の宣伝をしていますよ」
どういうことかわたいはわからず、ともかく近所のコンビニに飛んで行き読売朝刊を購入した。つり銭をもらう間も待ちきれずに、レジ前で新聞を大きく開いた。
2面の左側に、話題の田中先生が写真入で大きく紹介されていた。その記事の冒頭に「東京・神楽坂で売っていた大判焼きの『ペコちゃん焼』は毎週のように買っていた。長年愛してきただけに、何とかしなきゃと思った」と書いてあった。田中先生の発言を記者がまとめた記事である。これがお愛想でもリップサービスでもないことが後で判明するが、それにはいつか触れるとして、そのときわたしはうれしさで胸が震えた。また70歳の硬骨漢が神楽坂・ペコちゃん焼の客だったと知り、ペコちゃん焼の愛好者の広がりと手ごたえを実感した。三代40年にわたりこつこつやってきた「あきない」は、こんなときに予想外の援軍をもたらせてくれるのだ。
わたしは意を強くして、改革委員会のわたしのもうひとりのよりどころである吉永みち子さんに会うことを決意した。吉永さんとは面識はないが、意外な接点があったのである(続く)。
旧総理府の行政改革委員会の事務局長をつとめて、政府関係の委員を多く経験した田中一昭先生がその委員長になった。道路公団民営化問題では道路関係四公団民営化推進委員長代理になっていて、妥協をしない「堅物」だったという印象がある。道路公団民営化では、わたしが期待した作家の猪瀬直樹氏が桜井よし子氏に批判されたように危うい妥協をしていくなかで、田中先生は直言を厭わぬ熱血漢に映っていた。最終報告をまとめる役柄だったが、政府と与党による民営化の枠組み合意が、委員会最終報告の精神を覆すものだと批判し、小泉元総理に辞表を突きつけた破格な委員だった。弱腰の御用学者も多く登用されると聞く政府系委員の中ではいたって横紙破りだが、わたしたち生活者にはとても頼り甲斐のある委員である。BSE問題でも、農水省の対応が「偽装事件を誘発した」と、政府と役所を厳しく非難し、政府の国産牛肉買い上げ事業の仕組みの正否にまで踏み込んだ見解を発表している。そのときは食肉流通問題調査検討委員会委員長という要職だった。現在は拓殖大教授である。その田中先生が、不二家に内在する問題や体質を変革する改革委員会の委員長に就任したのだ。
FCオーナーといっても不二家不祥事になんら切り込めない自分の立場を歯がゆく思っていたわたしは、やっと地獄で仏に会った心境から「がんばってください!」と思わず快哉を叫んだ。
快哉の背景にはもうひとつの理由があった。作家の吉永みち子さんがメンバーに就任していたことである。日刊現代の競馬記者から作家になった異色の経歴を持ち、社会問題に切り込むときにはきわめて的確な発言をされるジャーナリストでもある。その見解は一方に片寄ることなく両者に目配りをしながらも、根っこまで踏み込んだ発言を添えることができるテレビコメンテーターである。わたしはテレビ画面に映し出される庶民顔の吉永氏にいつも同意の声援を送ってきた。
1月23日の朝だった。東京ライターズバンク代表の元朝日新聞記者児玉進さんから電話をもらった。東京ライターズバンクは、ライター編集者の緩やかな組織で、神楽坂・ペコちゃんの上のドトールを会合に使ってくれている。法政大編集ライター講座などを共同で開催している親しい仲である。この日は東京理科大から頼まれていた大学院生に対する日本語講座の件であったが、話は自然とペコちゃんに移っていった。
「大変でしたねえ」と開口一番にひとしきり同情してくれた後で児玉さんはこういった。
「平松さんは、田中先生とお知り合いなんですか?本日の読売新聞の「顔」で、田中先生が神楽坂ペコちゃん焼の宣伝をしていますよ」
どういうことかわたいはわからず、ともかく近所のコンビニに飛んで行き読売朝刊を購入した。つり銭をもらう間も待ちきれずに、レジ前で新聞を大きく開いた。
2面の左側に、話題の田中先生が写真入で大きく紹介されていた。その記事の冒頭に「東京・神楽坂で売っていた大判焼きの『ペコちゃん焼』は毎週のように買っていた。長年愛してきただけに、何とかしなきゃと思った」と書いてあった。田中先生の発言を記者がまとめた記事である。これがお愛想でもリップサービスでもないことが後で判明するが、それにはいつか触れるとして、そのときわたしはうれしさで胸が震えた。また70歳の硬骨漢が神楽坂・ペコちゃん焼の客だったと知り、ペコちゃん焼の愛好者の広がりと手ごたえを実感した。三代40年にわたりこつこつやってきた「あきない」は、こんなときに予想外の援軍をもたらせてくれるのだ。
わたしは意を強くして、改革委員会のわたしのもうひとりのよりどころである吉永みち子さんに会うことを決意した。吉永さんとは面識はないが、意外な接点があったのである(続く)。
by pekochan-yaki
| 2007-02-12 11:00
| ペコちゃん必死の戦い